Aizen

花冷えの契り

 彼は、笑っていた。地面に膝を付く己を安心させるかのような笑顔で、いつもの優しい微笑みを乗せて。彼は、確かに笑っていた――……。

 天に翳した手のひらをぼおっと見つめる。少し肌寒い風が吹く川辺に寝そべったまま、ブーツを脱いだ素足は川の水に緩く浸からせて。すう、と息を吸い込む。師に教わった最初で最後の歌を口遊みながら、今の時代は生き易くなったものだと痛感する。それは唯単に戦が無いからなのか、それともあの人や沢山の仲間達の命を犠牲にしておきながら訪れた平和が成すものなのか。
「……わからない」
 そう、わからないからこそ俺は未練がましく真剣に縋る事を止め、腰に真剣と比べれば遥かに殺傷力の低い木刀を指した。命を失わずに済むのなら、俺は夜叉だろうと修羅だろうとその身に宿す事を許そうと。ぱしゃり、川の水を何の気なしに蹴り上げる。空に舞い上がったそれはきらりと輝いて、やがて水面へと戻り波紋を作る。その様はまるで一種の人生のようだと思った。あの人のような生き方がまさにこの川の水のように透明感を持っていて、美しくて。血に塗れた己が浸かるには綺麗すぎて。でも、その血を洗い流してくれる水が大好きだった。
 だから、例えどんなに苦しくても、それこそあの人がこの世界に存在していなくとも、俺は生きようと思えるのだ。
「……先生」
 ぽつりと呟いたその言葉は風に流されて儚く消えていった。あの人があの時その身を賭して俺に託したもの。俺の生き方そのものの根底にあるそれは、例えるならば束縛だった。けれど、その束縛が己の生きる糧になっているのだから仕方無い。護る、という感情が欠落していた当時の俺には理解し難いものであったが、今ならその言葉の意味を理解した上で行動に移せる。ああ、奴にはぶった斬るなどと豪語してしまったが、彼の魂が救われるならば俺は――……。

 ぱしゃ、と透明な音を立てて立ち上がる。水に浸かった素足が冷えきって霜焼けになってしまっているかもしれないと思いながらも水面を斬るように歩き、空を見上げる。ざあ、と風が吹くと同時に頬に冷たい感触。その水色の空からぽつりぽつりと滴が落ちてきて、やがてさあさあと降る雨になる。その雨に落とされた桜の花弁が空中を滑り落ちて水面に着地して小さな波紋を生み出す。
「……」
 素直に綺麗だと思えた。まるで雪のように降る花弁に手を伸ばす。
「みんなを護ってあげてくださいね」
「約束…ですよ」
 最後に聞いた師の言葉が心中で響く。
「……ああ」
 その言葉に答えるように口角を上げ、祈るように目を閉じる。
「約束、だぜ」
 先生のその言葉が、今も俺をこの世界に縛り付ける鎖なのだ。

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