Aizen

蛍、無常

 静寂が広がる闇の中で、ちりん、と鈴の音がする。水面下で小さく響く澄んだそれは、この世に存在しない夢をほんの一瞬だけ見せて儚く消えた。それに呼応するように、水辺を飛んでいた蛍が発する光がすっと消え、次の瞬間にはぼうっと淡く光る色素の薄い長髪の男が水辺に佇んでいた。その男の髪がさらりと揺れ、男の顔を露わにした。男は目を細め、殆ど星が見えない空を見上げる。夜は、まだ明けない。

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 今宵は祭りがあるのだと、神楽が嬉々として俺に告げてきた。彼女の事だ、大方その祭りに連れていけと言い出すのだろう。その予想は見事に当たり、今彼女は浴衣を借りに新八と共に妙の所へ行っている。そのはしゃぎ様が、幼い頃の彼奴に重なって。つきりと色褪せた思い出を僅かに刺激する。その事実に、我ながら辛気臭いと苦笑した。けれど、今宵は盆だ。死者を弔う時だ。今宵くらい、思い出という名の過去に浸かっても誰にも文句は言われないだろう。嗚呼、そうだ。今宵くらい、彼奴と一緒に居たっていいじゃないか。そこまで考えて、己を呼ぶ神楽の声に閉じていた瞼を持ち上げて、何時もの気怠い声で返事を返した。

 この季節の祭りには、着物の合わせが反対になっている者が混ざっているという。その者は死者だ。弔われるべき魂だ。生者と死者の区別がつかぬよう、祭りの参加者は色々な形の面を被る。神楽は定春に良く似た面を被り、新八は狐の面。そして俺はというと。
「……夜叉、ね」
 手渡された面を見てぽつりと呟き、白夜叉の異名を持つ己にはぴったりだと自嘲の笑みを浮かべた。しかし耳に届いた新八の声にそれを引っ込め、子供達に向き直る。
「銀さん、僕ら適当に見て回りますね」
「おう、気ィ付けろよ」
「はい。行こう、神楽ちゃん」
 何かと思えば其れだけ告げてさっさと人混みの中へと消えてしまった子供達。だが、今はそれが有り難かった。暫く佇んでから、すっと人混みから目線を外して歩き出した。人混みの中に彼奴やあの人を探してしまう己を叱責するように。

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 今宵は江戸で盆祭りがあるのだと耳にした。来島や万斉には船で待っているように言い、己は一人船を降りて地に足を着けた。盆祭りといえば生者と死者が共に存在する事の出来る数少ない機会。あの人は己と同じように祭り好きであったから、もしかしたら会えるかもしれないと。そんな有りもしない事を期待する心を宥めるように煙管を銜え、紫煙を吐き出す。柔らかく吹く風に、ふわりと肩に掛けた羽織りが靡いた。

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 去る者は日々に疎し、という諺がある。死んだ者は月日が経つにつれて忘れ去られていく、という意味だ。この諺は誰にでも当て嵌まるようで当て嵌まらない。少なくとも、俺や彼奴には当て嵌まらず、むしろ其の逆であった。あの人を忘れられないまま、もう何年経つだろうか。己の根底に存在するものはあの人との約束なのであって、あの人そのものではないはずだ。けれど、約束という名の鎖を掛けられた時のあの人の月明かりに浮かぶ笑顔が、言葉が、あの人自身を己の記憶の奥底で眠らせる事を許さない。
「……忘れる、訳ねェだろう」
 何時の間にか辿り着いていた河原で小さく呟く。祭囃子を遠く聞きながら、夜叉の面に手を掛けてゆっくりと外す。此処ならば生者に溶け込もうとする輩も居ないだろう。夜叉を草の中に落とし、飛び交う蛍をぼんやりと見つめた。後ろの方で微かに地面を踏む音と、知っている気配。やはり、来たか。
「祭りの会場は此処じゃないぜ……高杉」
「……捨てられた夜叉を見かけたもんでな」
 深く被っていた笠を外して俺がしたように地面に落としながら声を発した高杉が、俺の隣へと歩み寄ってきた。
「…………」
 心地良い静寂が辺りを満たす。時折吹く柔らかな風の音が静寂を揺らしては過ぎ去っていく。嗚呼、これで夜空に沢山の星が浮かんでいれば、束の間でもあの頃に戻れるというのに。時代というものは残酷なものだ。それでもあの人は笑っていた。其の残酷な時代に殺されたというのに、何時も俺達に見せてくれていたあの優しい微笑みを乗せていた。ふわりとまた風が吹く。其れが俺の頭を撫でるように過ぎ去っていった。……否、過ぎ去ってはいない。確かに撫でられている感触がある。けれど、可笑しい。確かに撫でられているのに、全く気配を感じない。同じ状況に陥っているらしい高杉と目配せし、恐る恐る伏せていた目を上へと持ち上げれば。
「…………嘘、だろ……」
 あの日と同じ微笑みを浮かべたあの人が、其処に居た。

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 祭囃子が遠く聞こえる。澄んだ川のせせらぎに、蛍が淡く光って飛んでいく。己の小さな手のひらを引いて歩く師の慈愛に満ちた眼差し。そして俺の手を握る反対の手には、幼馴染みの手が重なっていた。嗚呼、これが幸せというものなのか。此の人と彼がいれば他には何もいらないとさえ思えてくる。ふわりと優しい風が吹き、己と師と幼馴染みを包み込んだ。
「二人は蛍をどう思いますか?」
 穏やかな時間が流れる中、師が口にした問い。此れに、幼馴染みは先生のようだ、と答えた。俺はよく分からなかったから、素直に其れを口にする。師は俺達の回答を聞いてくすりと笑い、言ったのだ。
「蛍は、魂です」
 儚くも力強く光る其れが、懸命に生きる人の魂そのもののようなのだと。師は俺達を真っ直ぐ捉えてそう言った。

  */*/*

 何も言わずに、唯俺達の頭を撫でながら佇むあの人は、あの時と何も変わってはいなくて。けれど、ぼうっと淡く光るその身体が、頭に感じる氷のように冷たい感触が、目の前の存在を死者なのだと思い知らせてくる。嗚呼、なんて。なんて幸せで残酷な夢だろう。ぎり、と歯を食い縛る。声が、聞きたい。あの強くて優しい声を。なのに、この人は其の唇を開こうとはせず、緩く弧を描かせているだけで。目の前に居るのに、声が聞けない。その事実に、目尻がじわりと滲んだ。そういえば、死者が混ざる祭りの中で、死者と言葉を交わしてしまえばあちら側に連れていかれてしまうと聞いた事がある。だから、だろうか。この人が、一言も発さずに俺達を唯見つめているのは。ぽう、と足元の蛍がまた光った。

 どれ位そうしていたのだろう、あの人がふと暗い夜空を見上げ、真剣な顔つきになった。するりと俺達の頭に乗せていた手のひらが外され、あの人の身体がふわりと空中に浮かぶ。
「!」
 高杉が息を呑むのが分かった。その光景は、蛍が飛ぶ様と酷似していて。蛍は人の魂なのだというこの人の言葉が頭を過ぎった。
「…………ッ」
 そういう事だったのか、と今更になって理解し、零れそうになる涙を耐えた。高杉は、伸ばしそうになっている腕を必死に押さえつけ、それでも真っ直ぐあの人を見つめている。そんな彼を羨む自分に目を閉じて、視線をあの人へと向けた。あの人は相変わらずの笑顔で、己がこの世の住人ではない事を苦にしてはいないように見えた。否、それでは語弊がある。どちらかと言えば、たった今未練が晴れたと言いたげな晴れ晴れしい笑顔である。あの人は迷子の子供のような表情をする俺達に笑みを深くして口を開いた。
「          」

  */*/*

 もう人も殆ど居なくなった祭りの会場の入り口に戻れば、二人の子供が仁王立ちで俺を出迎えた。
「全く、何処ほっつき歩いてたんですか?遅いにも程がありますよ」
「あんまり遅いから、銀ちゃんの分のたこ焼き食べちゃったアルよ!」
 そう言って俺に突っかかってくる子供達の手を掴んで己の方に引き寄せ、二人の頭をくしゃりと撫でる。何ですかいきなりだのそんな事したって駄目アルだの騒ぐ子供等に自然と笑みが浮かんだ。怪訝そうな顔をする新八と神楽に向かって、これからいい所に連れてってやる、と言ってやれば二人は不機嫌そうな顔から一転、ぱあっと顔を輝かせて俺の両腕にしがみ付いてくる。そういえば、昔俺と高杉で似たような事をあの人にしたっけか、と思い出してまた口角を上げた。

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