Aizen

風花抄

 降り積もった純白の煌めきが辺りを淡く照らし出す。夕闇に包まれた時間帯、光を発しているのは其処だけで。白い息を吐きながら、すいと目線を天へと向ける。ざあと音を立てて風が吹き、首に巻いている藤紫のマフラーと静かに散っていた真白い花弁を舞い上げた。否応無しに生み出される冷気に身体を震わせ、溜め息を一つ。白み始める気配さえ感じさせない空に、早く夜明けが来いと身体は訴えているのに心はその逆だった。夜が明けて冬が終われば、もう彼に会えなくなってしまうから。

 寒さに凍えそうな身体を自ら抱き締めて腕を擦りながら、毎年この時期になると必ず毎日といって良い程足を運ぶ神社、其の境内へ続く階段を一人の男――高杉晋助がゆっくりと上っていた。
「……変わらねェなァ、此処は」
 ぽつりと呟きを落とした高杉は、手に提げていたビニール袋から饅頭を取り出し、辿り着いた境内にぽつんと佇む地蔵の前に供えて膝を折って地蔵に手を合わせる。この神社は何年か前に起こった大火で殆ど焼けてしまい、残っている物といえば鳥居と地蔵、そして奇跡的に焼けなかった御神木くらいか。ふいにかさりと足元で枯れ葉が踊る。
「………………」
 目を僅かに見開き、枯れ葉を凝視する。枯れ葉は未だにひらひらと動いているが、風は全く吹いていない。高杉はすっと目を細めてまたか、と小さく呟くと口を開いて。
「居るんだろォ?出て来いよ妖怪さんよ」
 其の言葉に、地蔵の影からひょっこりと顔を覗かせた真っ白な幼子。雪と同化してしまいそうな儚さを持つ幼子はしかし瞳を鋭く光らせて此方を睨んでいた。此方を警戒している様子の白は、供えられた饅頭にちらりと視線を向けては外し、何処か落ち着きが無く。
「……饅頭なら食ってもいいぞ」
 俺の一言に、彼はきらりと赤く淀んだ目の奥を光らせた。

   *

 指に付着した餡子を舌で懸命に掬い上げている幼子をぼうと見つめながら、頬杖を突いて陽が傾き始めた空に向かって白い息を吐いた。この神社には滅多に人が来ないので、境内から伸びる階段に腰を掛けていても誰にも文句は言われない。
(此奴は……何時まで此処にいる?)
 美味しそうに饅頭を頬張る白い童に、柄にも無くそう思った。今迄この神社に何かいるとは薄々感じていたが、唯何かがいるという漠然とした事しか分からず、はっきりとした存在を把握出来ていなかった為、今回の様に其の存在を認識出来ると、ようやく何者か分かったと安心した反面、知らなければ良かったとも思えてくる。存在を心に刻んでしまえば、その分別れが辛くなるものだ。此の幼子も何時の日か此の寂れた神社から姿を消すのだろう。嗚呼、諸行無常とはこの事か。そういえばこの童の名前を聞いていなかったと気付く。
「おい」
 未だに饅頭に齧り付いている幼子に声を掛けた。幼子はすいと此方に視線を向け、何か用か、と目で訴えてきた。
「手前……名前は」
「……」
 幼子は瞬きしながら暫く此方を見ていたが、ふいと俯いて蚊の鳴くような声で呟いた。
「……おぼろ」
 初めて聞いた此奴の舌足らずな声は、何故か耳に酷く心地良かった。


   */*/*


 あれから、おぼろ――漢字で書くと朧というらしい――に懐かれたらしい高杉は、神社に訪れる際必ず饅頭やら金平糖やら、子供が好んで食べそうな食べ物を持って来るようになった。今日持ってきた菓子は、朧と同じ銀髪に赤目の幼馴染みから教えられた甘味屋で買った苺大福に随分前に与えたら気に入ったらしいコーヒー牛乳だ。白が疎らに散っている階段を滑らないように気を付けながら上り、口元をマフラーに埋める。境内まで辿り着けば、後は彼の名を呼ぶだけ。
「朧、いねェのか」
 辺りを見回し、手に提げたビニール袋からがさりと音を立たせて童の名前を呼んでやる。そうすれば、何時も何処かしらから顔を覗かせるのだ。
「……たかすぎ?」
 先日教えた己の名前を確かめる様に口に出しながら御神木の影から顔を出した朧は、高杉の姿を確認すると小走りで高杉の方へとやって来た。
「きょうは……なに?」
 相変わらず虚ろな目の奥を少しだけ輝かせ、今日の菓子は何だと聞いてくるこの幼子。年相応に振舞う彼に、高杉は羨望にも似た感情を抱いた。誰にも縛られず、自由に生きる子供。其の姿が一瞬己の幼馴染みと重なって軽く頭を振って思考を霧散させる。自由に生きているとはいえ、此奴は己と関わりを持ってしまったから或いは己が縛ってしまっているのかもしれないが。今日も今日とて俺が与えた菓子を美味しそうに頬張る朧の頭を撫でながらぼんやりと思考の海に溺れるのだった。

   *

 その日の夜。激しい音を立てて雪が吹き荒れ、今夜は嵐で冷え込む事が予想された。暫く外出は控える様にと伝えてくるテレビのお天気お姉さんは確か銀髪の幼馴染みが好きなキャスターだったと思う。
(朧……彼奴、無事ならいいがなァ)
 がたがたと揺れる窓を見やり、俺は小さく溜め息を吐いてテレビを消し、眠ろうと部屋の電気を消した。


   */*/*


 息苦しさに目が覚める。目の前には、銀髪に赤目の青年。己が良く知っている幼馴染みのもの、ではない。どちらかと言えばあの神社に住み着いている幼子のものだ。けれど、可笑しい。あの子供はまだ九つか十くらいの齢で、己と同じくらいの年齢では無かったはず。
「朧……なのか?」
 恐る恐る聞いてみれば、彼は静かに頷いて。
「…………高杉」
 幼い姿での声とは違う、はっきりと芯を持った低い声で耳元で囁かれ、ぞくりと背中が粟立つ。本当にこの青年が朧なんだろうか、荒れに荒れている天気の中あの神社から此処まで来たのか、そもそも如何して俺の家を知っているのか。聞きたい事は山の様にあったが、首筋に這わされた舌に思考を中断させられて。
「…………ッ、ん」
 熱っぽい息を吐きながら、青年――朧は俺の首筋に赤い花を咲かせていく。まるで彼の熱が移ったかの様に己もはあ、と吐息を吐いてしまう。
「……高杉、高杉」
 何度も俺の名を呼びながら俺の身体を暴いていく彼が酷く不安定に見えて、俺は彼の首に腕を回した。
「あ……ッ!」
 彼の指が、己の敏感な其処に触れる。途端に上がった喘ぎに、朧はふっと口角を上げ、此処がイイのか、とからかう様に胸で存在を主張する其処ばかりを攻め立てる。あ、あ、と己の口からはか細くも甘い声が零れ出て。羞恥から唇を噛み締めて声を抑えようと試みるが、彼からやんわりと甘い接吻を与えられて舌で唇を割られてしまう。
「ん、ん……う」
 くぐもった声を上げながら彼の首に回していた腕を外して彼の胸を叩く。暫くしてようやく唇が離されたと思いきや今度は喉を甘噛みされる。彼の情欲に濡れた眼差しだけで達してしまいそうで、せめて彼の目を見ない様にと腕を目の上に乗せた。
「……何をしている」
「……ッ、はあ…………?」
 冷たい声が上から降ってくる。途端に視界を遮っていた腕を乱暴に掴まれて、頬を思い切り叩かれた。一度だけ、けれどありったけの想いが籠った平手。じわりと熱を持ち赤く染まる其処に呆然としながら朧に視線をそろりと持っていけば。
「高杉……ッ」
 今にも泣き出しそうな、けれど触れる事は許さないと言いたげな表情をした彼が、其処にいた。嗚呼、俺は此の目を知っている。そう、この目は俺に懐く前、警戒心を露わにしていた頃の幼い彼の――。

「…………あ」
 気付けば彼を抱き締めていた。彼の耳元で、大丈夫だと呟く。何度も、何度も。そうしている内に落ち着いてきたのか、朧は俺の胸に顔を埋めてぽつりと呟いた。
「もうすぐ……会えなくなる」
 其の言葉に俺は静かに目を閉じる。如何して、と聞かずとも頭では分かっていた。朧は雪童子と呼ばれる妖怪だ。雪が溶けて春が来たら、もう会えなくなってしまう。否、それでは語弊がある。一年後の冬には会えるのだ。だが、お互い一年という時間を果たして我慢出来るのか。至極難問である。再びそっと始まった朧の愛撫に息を乱しながら、冬の終わりが訪れる事を恨んだ。


   */*/*


 小鳥の囀りが鼓膜を柔らかく刺激する。身体をゆっくりと起こして隣に誰も居ない事に溜め息を零し。何処か物悲しい、真白な朝。肌を重ねていても温もりどころか冷気を感じた彼の表情を思い出しながら、彼が己の身体に残していった所有の証にそっと触れて。
「…………朧」
 静寂に落とされた己の呟きは、誰に届くでもなく空中に溶けて消えていった。

   *

 夕方になり、辺りが橙色に染められていく中、俺は何時もの様に神社へと足を進めていた。少し長い階段を上り、鳥居を潜って境内へ入り。地蔵の前に供え物を置いて手を合わせ。そして、何時もの様に彼の名を呼んだ。

 彼は、姿を見せなかった。何度呼んでも、叫んでも。朧が返事を返す事は無かった。


   */*/*


 彼が顏を出さなくなってからどれ位経っただろう。もうそろそろ雪解けが始まる時期で、嗚呼彼に会えなくなってしまう、そんな事は嫌だと我ながら女々しい感情が心を支配する。その感情が会いたいという気持ちに変わるのに時間はそれ程いらなかった。けれど、肝心の朧自身が姿を現さない。神社の何処を探してもあの白は見当たらず。唯悪戯に時は過ぎていき――。


   */*/*


 寒さに凍えそうな身体を自ら抱き締めて腕を擦りながら、毎年この時期になると必ず毎日といって良い程足を運ぶ神社、其の境内へ続く階段を一人の男――高杉晋助がゆっくりと上っていた。
「……変わらねェなァ、此処は」
 一年前と全く同じ事を呟きながら、高杉は手に提げていたビニール袋から饅頭とコーヒー牛乳を取り出し、辿り着いた境内にぽつんと佇む地蔵の前に供えて膝を折って地蔵に手を合わせる。ふいにかさりと足元で枯れ葉が踊った。風は全く吹いていない、無風の状態。
「………………」
 高杉は驚いた様に僅かに目を見開いたが、直ぐに悪戯っぽく口角を上げて言葉を紡いだ。
「居るんだろォ?出て来いよ妖怪さんよ」
 其の言葉に、地蔵の影からそろりと顏を出した真っ白な幼子。彼に手を伸ばせばおずおずと此方へ寄ってくる。そんな童の身体を思い切り抱き締め、其の額に口付けて。
「……たかすぎ」
――嗚呼、やっと会えた。

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