零落
落ちる。天から地へと、一瞬にして。紅色に身体が沈み込む瞬間に最後の足掻きとばかりに手を伸ばしてみるけれど、救いを乞う事は許さぬと過去の残像が歪んだ笑みを浮かべて嘲笑う。
(――……嗚呼、)
これが己が本心に嘘を吐き続けた己への罰か。諦めた様に瞼を下ろして赤い花弁の海へと身体を沈めていく。己の銀髪を紅色がゆっくりと染め上げていって。混濁していく意識の中で、柔らかい光明に包まれた太陽の様な青年の背中が見えた気がした。
ふう、と煙を夜が明けたばかりの白い空に向かって吐き出す。灰色に濁った其れは眩しいまでの白を一瞬だけ汚すと、風に浚われて泡沫の如く消えていった。
「…………」
江戸城で一騒動あったらしいという情報を聞きつけ、ふらりと其方へ出向いてみれば案の定己の幼馴染みである銀色が絡んでいて。屋根の上で胸を貫かれて意識を失っているくすんだ銀色を遠目で捉えた時、如何し様も無い感情が己を駆り立てた。色こそ同じだが己の幼馴染みではない事に安堵を覚えつつ、皆が屋根の上から降りて意識が彼に向いていない内にと屋根へ上って彼を見下ろす。
身体の彼方此方を赤く染めて瞼を閉じているくすんだ銀色は得てして儚く、今にも消えてしまいそうであった。そんな彼の姿にすっと目を細め、身体を屈めて其の胸に突き刺さっている折れた木刀を引き抜く。じわりと滲んだ紅色に眉根を寄せ、己の羽織りを裂いて其処に縛り付けて彼の身体の下へと両手を差し入れる。持ち上げたくすんだ銀色の身体は意外と軽く、僅かに目を見開いて小さく息を吐いた。
ビルの隙間から朝焼けの光が辺りを淡く照らし出す。真っ白だった空が柔らかな橙色に焼かれ、一日が始まった事を告げていた。
*
あれから真っ直ぐくすんだ銀色の髪を持つ彼――朧を連れて己が寝泊まりしている宿まで帰って来たはいいのだが、何しろ朧は天導衆の使いだ。俺達鬼兵隊とは正反対の位置、つまり俺達の敵に当たる。人払いはしたものの、何時部下達に見つかってしまうか分からず安易に安心出来ない状況で。
(此奴ァ早急に場所を移すべきか……それとも)
悩む己とは裏腹に、如何して本来敵である彼を助ける様な真似をしてしまったのか、と問う己も存在した。心に生まれた其の葛藤を消す手立てなど見つかるはずもなく、煙管の煙と共に一旦考える事を吐き出して。
丸一日眠っている銀色へと視線を滑らせ、彼が身体を横たえている布団の側に腰を下ろす。時折眉根を寄せて小さく呻き声を上げる朧の、其の目に掛かった前髪を分けて表れた痛々しい傷跡を指でつうとなぞって目を伏せた。
朧とは戦争をしていた頃に一度だけ会った事がある。他でもない俺達の太陽だった人――吉田松陽の首を持って来た男、其れが彼だったのだ。絶望がゆるゆると身体を呑み込んでいく中、朧の感情が一切感じられない無機質な瞳の中に悲しみを見た気がして。それ以来彼とは会っていなかったから、彼の中の感情を確かめたくて彼を助けたのかもしれない。
(――嗚呼、)
案外単純な答えに辿り着いた事に口角を上げた。やはり己は彼の人が絡むと如何し様もなくなるらしい。
それにしても、己の推測が当たっているとすればこのくすんだ銀色は一体何の為に己の幼馴染みと戦ったのだろう。
「解せねェな……」
ぽつりと落とした声は、朧の苦しそうな寝息が小さく響く部屋に溶けて消えていった。
*/*/*
嗚呼、赤い。辺り一面が鮮やかな紅色に染められている。己が息を吐き出す度にこぽりと水泡が上へと舞い上がっていく。ゆっくりと沈んでいく身体は重く、手足を動かす事すら億劫に感じて。赤しか存在しない世界を見ていると気が狂ってしまいそうで、そっと瞼を下ろしてみる。今度は紅色ではなく暗闇が視界を支配した。
「――貴様に何が出来る」
黒く塗り潰された世界で、一人の少年が己に問い掛ける。
「松陽も護れなかったくせに……あんな約束が果たせると思うのか」
彼はゆっくりと腰に差した刀を抜きながら此方へ近寄って来て。
「貴様には何も出来はしない」
己と同じくすんだ銀色の髪を揺らし、無感情な紅玉の瞳を己に向けた過去の己がまるで機械の様に己を罵る言葉だけを零していく。其れに眉根を寄せ、じりじりと後ずさる。刀も針も持っていない丸腰の状態の己、頼れるものといえば体術くらいか。然う斯う考えている内に、気付けば彼の振り翳す刃が目前へと迫っていて。そして――。
*/*/*
「……ッ!」
勢いよく目を見開く。見覚えの無い天井が目に入り、荒い呼吸を整えながら辺りを見回す。己は江戸城に居たはずだ。此処が城内にある一室だとしたら部屋の作りが違い過ぎるので、少なからず江戸城では無いだろう。ならば此処は一体何処であろうか。
痛む胸を押さえて上半身を起こし、再度周りを確認してみる。胸に包帯が巻かれていて、戦いでボロボロになってしまった着物から綺麗な着流しに着替えさせられている事から、己に害を為そうとしている人間の許に居るのではないと判断し、ほんの少しだけ身体に纏った警戒を緩くする。己しか居ない室内、静かな空間でふう、と一つ息を吐いてそっと瞼を閉じた。
「よォ」
柔らかく鼓膜を揺らした低い声。瞼を開けて声がした方に視線を向ければ、派手な着流しを緩く其の身に纏った隻眼が静かに煙管を燻らせていた。幕府が出している手配書で一度目にした事がある其の青年は、煙管の火を消すと其れを近くの棚の上に置いてあった煙管盆の上に置き、此方にゆっくりと近付いて来て。
「……俺を殺すか。高杉晋助」
己が座っている布団のすぐ側に腰を下ろした青年基高杉は、俺の発した言葉にふっと口角を上げ、喉を鳴らして笑って俺の首に手を掛けた。
「そうしてェのは山々だが……生憎手前は俺の獲物じゃねェんでな」
言いながら、彼は俺の喉を緩く絞めたまま布団の上へと押し倒す。倒れ込んだ衝撃で胸の傷がつきりと痛んだ。
「…………そうか」
喉を絞める手の平をそのままに深く口付けてきた高杉の、其の冷えた首裏に腕を回して瞼を閉じる。嗚呼、そうだ。彼も松陽の弟子であるから、少なからず己を憎んでいるだろう。白夜叉と同じ様に。ならば、俺は。彼の中の激情が少しでも大人しくなるのならば俺は――……。
*
「ん……ふ」
静かな空間に小さな水音と己の掠れた声が落ちる。身体の上を踊る指先、触れられた場所からじわりと熱が生まれていく。
「あ……は、あ」
肌蹴て露わになっている素肌の、心臓の真上に穿たれている烏の刻印の中心に唇を寄せられれば、喉がひくりと鳴って背中が浮いて。流れる様な愛撫に声が漏れそうになるのを必死に堪えていれば、しなやかな指が唇を割ってゆっくりと口内に侵入してきた。
「う、ぐ、」
そのまま口内を蹂躙する指。唇を開ける様に動く其れは、我慢せずに声を出せという暗黙の命令で。ず、と指が引き抜かれ、十分に濡れた其れが己の秘部をつうとなぞる。喉を絞めていた手の平が動き、耳の裏をそっと擽った。其の感触さえ快楽となって己を襲うものだから、あ、あ、と引っ切り無しに声が口から放り出されて。
「……ッ、は……」
ぐ、と指が秘部へと押し込まれる。はあはあと獣の様な息を吐きながら、己を嬲る隻眼の欲に濡れた翡翠、その奥で僅かに光った感情を霞む視界で捉えて目を細めた。
(……本当に)
馬鹿者揃いだな、貴様の弟子は。甘噛みされる喉に彼の背中に爪を立てて喘ぎを零しながら、一人の男に想いを馳せる。
夕陽の様に温かく、真昼の太陽の様に眩しかった彼。何もかもを諦めた虚ろな人形達の中で唯一生きていた青年。己に感情と言う名の種を植え付けた、松陽という名の太陽を。
「う、あ、」
指を引き抜かれたヒクつく其処に宛がわれた熱いモノにぶるりと身体が震える。次いで己を突き上げた其れの衝撃にびくりと足が跳ね上がり。息が詰まって悲鳴を上げる喉を宥める様に、ゆっくりと呼吸して己の中に感じる灼熱に意識を集中させる。
其処で初めて己を支配している彼が口を開いた。
「抵抗、しねェんだな」
僅かに息を荒らげた隻眼が耳元で声を落とす。少し身体を動かした為にぐちりと繋がっている場所から水音が漏れて。其れに小さく喘ぎながら言葉を紡いだ。
「抵抗、する必要が……ないだけ、だ」
俺の言葉を聞いた高杉はふっと口角を上げてそうか、とだけ言うと荒い動きで俺の身体を揺さぶり始める。熱を纏った肌、其の温もりに何故だか涙が零れそうになって強く唇を噛み締めた。
何も感じなかった。感情など持っていても己には邪魔にしか思えず、感情を持つ必要性が見受けられなかった。己は与えられた命令に従順に従うだけ。殺してこいと言われれば誰であろうと殺してきたし、己を傷付けろと言われれば傷付けてきた。夜伽になれと言われれば抵抗せずに足を開いたし、どんな事を要求されても全て受け入れて応える。そんな己の事をまるで糸で繋がれていない操り人形の様だと誰かが言っていたか。
けれど、それでいい。それでいいのだ。己は彼等の操り人形でいい。操り人形がいい。そう、思っていたのに。
「……おや、眠れないのですか」
薄暗い牢獄、死んだ様な虚ろな目をした罪人達の中で唯一光を放つ存在。彼に、ほんの少し興味を抱いた。思えば其の僅かな好奇心が己を変えたのかもしれない。
*
己が従順に従うのは天導衆や幕府の人間のみ、投獄されている罪人の戯れ言に付き合うつもりは毛頭無かったのだ。なのに何故この男――吉田松陽とだけは言葉を交わしても良いと感じてしまったのだろう。心に小さいけれど大きい疑問を抱えながら彼と会話をする。
「そういえば、貴方の名前をまだ聞いていませんでしたね」
優しい微笑みを浮かべながら青年は真っ直ぐ俺を見据えて。彼に己の名前を教える必要などあるのか、と問えば彼はくすりと笑って言葉を紡いだ。
「何時までも貴方と呼んでいては私がつまらないじゃないですか」
悪戯っぽく見えた彼の笑みに、これは俺が名前を言うまでしつこく聞いてくるだろうと判断して素直に己の名を口にする。
「……朧」
そうすれば、青年は嬉しそうに顔を綻ばせて。
「私は吉田松陽といいます。好きに呼んでくれて構いません。よろしくお願いしますね、朧」
そう言って格子越しに俺の頬に手の平を添えてそっと微笑んだ松陽の表情が、今でも脳に鮮明に焼き付いて離れない。
烏は神聖な生き物だと言ったのは誰だったか。そんな事をぼんやりと考えながら己を貫く其れに熱い息を吐く。己の身体を好きに嬲る隻眼の頭を抱き込みながら、しかし心の中では松陽を想う自分が酷く滑稽に思えて自嘲の笑みが滲み出た。
「……ッ、う……!」
高杉が少し苦しそうに息を詰める。身体の中、奥深くに感じた灼熱に己も堪らずに白濁を吐き出して。快楽の余韻に浸って身体を震わせていれば、柔らかい接吻が唇に落とされる。
「ん……ぷ、は」
長い様で短い接吻から解放された俺は、潤む視界で己を組み敷いている青年を見据えて。そんな俺の視線に気付いた高杉がふっと口角を上げて囁いた。
「殺さねェんだな」
手前にとって俺ァ真っ先に殺すべき対象だろう、そう言って笑う彼の表情に胸がずきりと痛んだ。真っ白な包帯が巻かれた傷口では無く、松陽に与えられた心が悲鳴を上げたのだ。
「……馬鹿者め」
彼の耳に届かない様に小さく声を落として其の身体を抱き締める。温かい。首だけになってしまった松陽の様に氷の冷たさを其の身に宿してはいない。胸の奥に安堵が生まれ、それと同時に彼を如何やって突き放そうかなどと考えてしまう当たり、己もどうしようもない馬鹿なのだろう。ゆっくりと閉じた瞼から一筋の滴が流れ落ちた事に、俺は気が付かなかった。
傷が癒えるまでは此処に居ても良い、と告げられた為に大人しく世話になる事を決めてから早三日。まだ包帯は取れないが、傷口は大分塞がってきた。
そういえば、此処に来てからずっと疑問に思っている事がある。高杉は何故憎むべき対象である己を救う様な真似をしているのか、何故手酷く嬲らずに優しく宥める様に抱くのか。
(……解せぬ)
心の中でぽつりと呟いて布団に入る。月光が淡く照らし出す室内で、誰かがおやすみと囁いた気がした。
*/*/*
紅色の花弁に沈んだ先に見えたもの。遠い過去の、海神。色褪せた思い出が陽光を浴びてきらきらと輝いている。松陽と初めて会話した時、信女と共に街へ出た時、松陽から彼の弟子の話を聞いた時。穏やかで優しく、輝かしい記憶が水面で揺ら揺らと揺れているが、海底に近付くにつれて其れは姿を消し、代わりに赤黒く汚れた重い記憶が静かに佇んでいるのだろう。
空中で身体を捻って視線を天へと向ける。憎らしい程澄み渡っている蒼穹と、先程まで己の身体を包み込んでいた紅色。相対する色を持つそれらはまるで己と松陽の様で。せめてこの光景を忘れぬ様にと網膜に焼き付けた瞬間、背中に冷たい衝撃を感じた。
*
こぽりと水泡が海面を目指してゆっくりと這い上がっていく。其れに比例して己の身体はどんどんと暗い海底に引き摺り込まれていって。僅かに見開いた目で己の記憶の海を唯傍観する。
(――……光……)
暗闇がほとんど辺りを支配する様な海底であっても僅かな光は届くのだな、とぼんやりと感じた。息苦しい感覚はなく、呼吸が正常に出来ているのはこの世界が夢であるからだろう。そして、一番深い場所で眠っていた記憶は、やはり。
「私の弟子に、銀時と晋助という子が居るんです。その子達を、護ってあげてくれませんか」
優しくて暖かで、誰もが安心してしまう様な穏やかな光を放っていた彼の、最期の言葉。己に託した儚くも強い想い。彼と、否、己の人生で初めて交わした、鎖の様な約束だった。
高杉が俺を抱いたのは己が目覚めて直ぐの一度、唯それだけであった。此方としては傷の治りに影響しないのでありがたい事であるが、一度抱かれてしまえば忘れられなくなるというもので。
(……我ながら女々しいな)
すっかり彼に絆されてしまった心に小さく溜め息を吐きながら瞼を閉じて瞑想する。かたん、と僅かな音が鼓膜を揺らしてすっと目を開けて其方を見遣れば、其処には何時もの様に煙管を弄ぶ隻眼が立っていて。用が無い限りこの部屋には入って来ない彼が敷居を跨いだという事は、つまり。
「……用件は何だ」
何も喋らずに煙管の煙を吹かしている高杉に声を投げれば、彼は喉を鳴らして笑ってから口を開いた。
「手前、そろそろ親烏の所へ帰った方が良いと思うぜ」
手前が居なくなってもう四日目だ、あまり長居をすると怪しまれるぜェ。そう囁いた彼に嗚呼帰らなくては、と僅かに心に危機感が生まれた。
(――……もし、)
もし彼に己を解放する気が毛頭無いなら。天導衆が血眼で己を探していたら。敵である鬼兵隊に世話になっている己を見て裏切り者だと判断したら。そうしたら。
(約束、が……)
松陽と交わした最初で最後の約束が護れなくなってしまう。白夜叉――坂田銀時と高杉晋助を護る為には丁度良い己の位置が失われてしまう。そんな事になってしまったら俺は――……。
「安心しな、奴等には気付かれてねェ」
考えている事が顏に出ていたのだろうか、高杉が面白そうに笑いながら告げてきた。其の言葉に心の中で安堵の溜め息を吐きながらそうか、と答えて。
「…………」
長い沈黙が夕焼けに染まる部屋を抱き締める。きしりと畳を踏んで此方に歩み寄って来た高杉が己の側にそっと膝を突き、触れるだけの短い接吻を与えてきて。直ぐに離れてしまった其れに縋る様に俺は彼の肩を掴んで、今度は己から唇を重ねた。段々と深くなっていく其れに、彼を繋ぎ止めたまま起こしていた上半身を布団の上へとゆっくり倒して。
左側の頬を静かに滑り落ちた冷たくて暖かい雫が、高杉のものなのか己自身のものなのか分からなかった。
*
己にとって鬼兵隊の総督である高杉晋助は敵ではあるが護る対象で、其れ以上でも其れ以下でもなかったというのに。松陽と交わしたたった一つの約束以外何もいらなかったというのに。それなのに、彼から与えられる其れが欲しいと思ってしまった。決して望んではいけないもの。己に憎しみを抱いている相手からそんなものが貰えるはずがないのだ。そう自分に言い聞かせてみるが、己を抱く彼の体温が、己を貫く彼の熱が、己自身に必死に言い聞かせている言葉達を優しく諭す様に一つ一つ砕いていく。
(…………何故)
己は高杉に絆されてしまったのだろう。常ならば冷たく凍った心、其れが急激に融かされていくこの感覚は松陽と話をしていた時と同じもので。嗚呼やはり彼と松陽は師弟なのだな、と思い知らされる。けれど、彼の中に松陽の面影など感じる事は出来はしない。敢えて言うならば目か。其の隻眼の奥の奥に、滅多に見せない儚げな光が存在するのだ。松陽の様に穏やかで力強く、誰もが安堵を覚えてしまう様な光が。
「……ッあ!」
急に背中に走った快楽にびくりと身体を跳ねさせる。背中に覆い被さって俺を支配している高杉が、己の肩口に舌を這わせて噛み付いたのだ。
「う……」
ずきずきと痛む其処に顔を歪める。何かが背中を伝う感覚に、嗚呼血が出てしまったのか、と理解して。高杉の真っ赤な舌が其処を伝って紅色を攫っていく。嗚呼、もどかしい。けれど、ここで足りないなどと言って強請ってしまえば己の中の何かが壊れてしまう気がして。じわりと目尻に滲んだ涙に気付かないふりをして掠れた喘ぎを唯零した。
*/*/*
たった一度だけ、朧が眠っている時間帯に彼の部屋に入った事がある。まだ彼を拾って間もない頃、其の柔い身体を抱いた日の深夜の事だ。月光の光に淡く照らし出される彼に近付き、枕元に膝を突いて其の首筋に短刀を宛がう。このまま刃を引いてしまえば彼の命は儚く消えるだろう。すっと目を細めて短刀を握る手に力を籠める。半分は殺す気で、もう半分は彼を試すつもりだった。
ぷつりと皮膚が切れて其処から紅色が滲む。朧から掠れた呟きが発せられたのは其の時だった。
「……う、よ…………」
「……!」
酷く小さくて聞き取り難かったが、彼は確かに松陽、と口にした。次いで一筋だけ頬を伝った其れに、短刀をそっと彼の首筋から離して鞘に納める。そして、彼の頬を濡らした涙をそっと拭ってやると、物音を立てない様に部屋から出て行った。
朧の心を確かめ様とした高杉の、最初で最後の行動だった。
高杉の所に世話になり始めてから五日目の朝が来た。先の戦いでボロボロになってしまった着物はしっかりと直されていて、染み込んだ紅色も綺麗に其の姿を消していた。その事に僅かに目を見開きつつ、着流しから其れに着替えて。着ていた着流しは綺麗に畳んで風呂敷で包み込む。そして、側に置いてあった錫杖を手に取ると部屋の敷居を跨ぎ、一瞬だけ振り返ると一礼して宿を出た。
(……着流しは洗って返さねばな)
そんな事を思いながら。
*
ふわりと煙管の煙が早朝の肌寒い風に流されていく。朧を匿ったのは他でもない己自身の為なのだと、彼を抱いて其の心を確かめたあの夜にはっきりと気付いてからなるべく彼に関わらない様にしてきた。けれど、最後の最後で其の身体を抱いてしまった。後悔はしていない。例え彼の人の首を持って来た人物であろうと、其の彼自身が自責の念に捕らわれている様に感じたから。
ベランダから朧が居なくなった部屋に入り、置いてあった三味線を取って音を生み出す。己の奏でる旋律に一抹の寂しさを感じたのは初めてだった。
落ちる。天から地へと、一瞬にして。紅色に身体が沈み込む瞬間に最後の足掻きとばかりに手を伸ばしてみるけれど、救いを乞う事は許さぬと過去の残像が歪んだ笑みを浮かべて嘲笑う。
(――……それでも)
それでも前に進もうと足掻いて、もがいて。己が本心に嘘を吐き続けるのはもう止めた。見開いた瞳に赤い花弁の海を焼き付けて四肢を動かす。己の銀髪を紅色がそっと掠めて。花弁が己を包み込む様に舞い散る中、柔らかい光明に包まれた太陽の様な青年が此方を振り返って手を差し伸べた。そして、穏やかな微笑みを浮かべると何かを呟いて花弁と共に弾けて消えた。
夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ あまつ空なる人を恋ふとて
文末和歌:詠み人知らず