Aizen

散花

「あんたが、悪いんだよ」
 小さな呟きを雨と共に地面へと落とす。
「あんたが、俺を拾ったりしたから……ッ!」
 ぎり、と歯を食い縛り、握った拳にこれでもかという程力を籠める。爪が食い込んで切れた皮膚からぽたりと紅色が零れた。
「先生……ッ!」
 雨に濡らされていく戦場で、薄暗い曇天を見上げた一匹の白い獣。彼が上げる咆哮にも似た慟哭は、誰に届くでもなく霧散した。

 初めこそ、感情など持っていても邪魔なだけだと思っていた。けれど、彼の人に出会って人間という生き物を知る内に、何時の間にか己の中にも感情が芽生え、人間を、動物を、世界を、愛しいと思う様になってしまっていた。どんどん人間に近付いていく自分。
「……なあ、おれ怖い」
 鬼と呼ばれた己が人間になっていく様が恐ろしくて、そう彼の人に呟いてみたら、彼の人は唯笑って俺の頭を撫でて大丈夫ですよ、と優しく抱き締めてくれた。
「それは恐れるものではありません」
 だから、感情に身を預けて御覧なさい。

 あんたが、他でもないあんたがそう言ったから。俺は、己の心が命ずるままにあの時あんたを護ろうとしたのに。なのにあんたは、何時もの様に微笑んで。
「みんなを、護ってあげて下さいね」
 そう言って綺麗に笑ったから。だから、すぐ帰って来るという言葉と、皆を護るという約束だけを残して行ってしまったあんたを信じて刀を振るってきた。
 けれど、目の前に突き付けられた現実はあまりに残酷で。

「嘘吐き」
 真っ赤に染め上げられた己の姿と、何時も通り綺麗で傷一つ無い、あんたの首だけになった魂の抜け落ちた虚ろな器。雨に打たれて体温を奪われた身体は寒さに震えているのか悲しみに震えているのか分からず。
「あんたが、あんただけが俺の……」
 呟いた言葉の続きが、雨に掻き消されて聞こえなかった。其れ処か、己の世界から音という音が消えていく。ばしゃりと膝がぬかるんだ地面に崩れ落ちて。
(…………嗚呼、そうか)
 己は死ぬのか、と悟った。死ぬ時くらいは側に居たいと、背後に放置された彼の人の首を手繰り寄せて胸に抱え、そのまま地面にゆっくりと倒れ込む。
(最期くらい……いい、よな)
 雨に濡れた頬を、其れとは違う透明な雫が伝う。其の雫が彼の人の固く閉ざされた目の下に落ちてすうっと流れた。愛していたのだ、彼の人が愛した此の世界を。けれどそれは、此の世界の中心にあんたが居たからだ。あんたが俺に優しい笑顔を向けていてくれたから、俺は今迄生きて来られたのだ。あんたが居ない世界など、俺には耐えられない。


   */*/*


 雪が降る。寒さに身体を震わせながら、手の平に息を吹き掛けて少しでも暖を取ろうと試みる。辺り一面純白に染まる此の季節、さすがに着流しと羽織りだけでは無理があったか。はあ、と白い息を空中に吐き出し、再びぶるりと身体を震わせた。
(…………寒い)
 手が悴んで上手く指が動かず、何時もより緩慢な動作で両手を擦り合わせる。その時、ふわりと肩に何かを掛けられた感覚がした。其れに振り向けば、優しい微笑みを顔に乗せた彼の人の姿が。
「風邪を引きますよ、銀時」
 穏やかな声音でそう言うと、彼の人は俺の首に真っ白な襟巻きを巻き始めた。何故だか異様に長い襟巻き。何時までも彼の人が巻き続けるものだから、段々と苦しくなってきて。
「せ、んせ……、苦しい」
 圧迫される喉から声を絞り出してみるけれど、彼の人の耳には届いていない様で。否、届いてはいる。届いてはいるのだが、彼の人が俺の声に聞こえない振りをしているのだ。彼の人は相変わらずの笑顔で襟巻きを持つ手に力を籠めてぎり、と引っ張る。
「う…………ッ」
 絞められて酸素が上手く吸えない。はふはふとまるで獣の様に息をする俺を見て、彼の人は浮かべていた笑みを深くして。
「大丈夫ですよ、銀時……すぐに彼方に帰してあげますから」
「あ、ちら……?」
 穏やかな声を発する彼の人に、喘ぐ様に問えばええ、と返事が返って来て。
「だから、安心して生きなさい」
 ぐっと、一段と強く首を絞められる。視界が掠れて彼の人の微笑みが遠くなる。薄れゆく意識の中で、彼の人に向かって必死に手を伸ばした。
(…………待ってくれ……)
 俺はまだ、あんたに何も――。


   */*/*


 目を開ければ、目の前には見慣れた薄汚れた天井が。そして、視線を横に滑らせれば刀を抱えて眠る幼馴染み二人の姿。
(帰って、きちまったのか)
 唯、そう思った。あの銀世界は夢だったのだろうか。それにしては妙にリアルであったが。
 生きなさいと、言われてしまった。俺を諭す様に優しい微笑みを浮かべたまま俺の首を締め上げた彼の人の瞳の奥に、ほんの僅か悲しみが見え隠れした様に見えたのは己の気のせいか。
 はあ、と溜め息を一つ吐いて布団に横たえられていた身体を起こす。冷え切っていた身体は布団に籠もった己の温もりで十分に温まっていて。
「…………先生」
 ぽつりと呟いた声が、幼馴染みの寝息が静かに響く部屋に溶けて消えた。
 意識を失う直前まで己の身体を冷やしていた雨の音は聞こえない。如何やら雨は上がった様だ。けれど、己の心は護れなかったと泣くばかりで。

 己の心に降る雨が止んで太陽が顏を出すのは、此の激しい攘夷戦争が終結した先の、もう少し未来の話である。


時、既に遅し様提出/お題:対象a

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