寂寥の先
もっと、もっと生きていたかった。もっと、御前等馬鹿共と一緒に笑っていたかった。嗚呼、もっと――。
己の胸から溢れ出す紅色にそっと手を当てる。霞む視界に映る天も同じ様に真っ赤に色付いていて。嗚呼、これが己が見る最後の世界か、そう思って僅かに口角を上げた。
(これで、いいんだ)
過去から呼び寄せた自分自身に己を殺させ、更にはナノマシンウイルスを寄生させられたばかりの過去の己を殺しに行かせる事によって、今この世界を蝕んでいる悪夢は終わりを告げる。そう、世界は何事も無かったかの様に一から回り始めるんだ。「俺」という存在を消し去って。
(これで、いい……)
五年前の己だけが、己にとっての希望だった。そして彼は、俺の思惑通り俺を愛刀である木刀で殺してくれた。これで安心して逝ける。なのに、それなのに。
「な……ん、で……」
己の今にも閉じそうな双眸から、熱い雫が零れているのだろうか。
「銀さん」
「銀ちゃん」
耳の奥で、子供達が己を呼ぶ声がする。
――嗚呼、そうか。俺はまだ……。
「し……ぱち……かぐ、ら」
乾いた喉から声を捻り出して。力の入らない腕を無理矢理動かして持ち上げる。
「ごめ……ん、な」
御前等を、最期まで護ってやりたかった。
天へと伸ばした腕が震える。この五年間、一度も決して流れる事の無かった涙が己の紅玉から溢れて止まらない。ふるりと睫毛が震えて限界を訴えた。
(さよなら、だ)
そうして、炎に焼かれている様な鮮やかな色を網膜に焼き付けた己の目は、重力に従って落ちた瞼と共に其の役割を放棄した。
力の抜けた腕が、手の平が、誰かの温もりに包まれるのを感じた気がした。
*
全ての始まりは、攘夷戦争時に魘魅という敵と戦った事だった。
奴のまるで触手の様に縦横無尽に動く其れに腕を斬られた時は、一発食らってしまったか、程度にしか思わなかったのだが。まさかそれが世界を終焉へと導く火種になろうとは。
(敵ながら天晴れって奴かねェ)
一条の光さえも届かない深海に身を沈めながら、ぼんやりとする頭で思考する。己の身体中を這う梵字の様な痣は、一生消える事は無いのだろう。そういえば、俺を殺した過去の己は動かなくなった俺の身体を如何したのだろうか。出来ればどこかへ隠していて欲しい。彼の側には新八と神楽も居たはずだ。あの二人にだけは、己の冷たくなった傷だらけの身体など見せたくはない。だから――。
「頼んだ……ぜ、坂田……銀、時」
そう呟いた直後、真っ暗な空間に一筋の光が差し込み、辺りを柔らかく照らし出し。其の光に、俺はふっと口角を上げて瞼を下ろした。
*/*/*
「馬鹿アルな」
「馬鹿だね」
赤く染まる静かな空間に、男性と女性が並んで立っている。二人の前では、階段に座り込んで俯き眠っている銀色の髪を持った青年。ふわりと僅かに風が吹く。其れに誘われる様にして、二人は銀色の身体をそっと抱き締めた。
「……こんな趣味の悪い格好までして、どんな仕事してきたアルか」
「本当ですよ。身体の方も何時にも増して傷だらけじゃないですか」
男性と女性基新八と神楽の声が震える。腕の中にある温もりをまだほんの少し宿した身体は、間違いなく二人が探し続けていた坂田銀時のもので。
「……お帰りなさい、銀ちゃん」
「お疲れ様です、銀さん。後は僕達がやっておくんで……ゆっくり、眠ってて下さい」
少しずつ冷えていく手の平を、二人は自らの体温を分け与える様に包み込む。ごめんな、ともう喋らないはずの目の前の銀色が言葉を紡いだ、気がした。
消える、消える。己の記憶の中から、坂田銀時という存在が跡形も無く消えてゆく。
(嫌だ……)
この時代の銀時がこの世界を襲った悪夢を終わらせる為に呼び寄せたという五年前の彼は、全ての元凶たるモノを断ち切りに十五年前へと飛んでいってしまった。
「御前等だけは、俺の事……忘れないでくれよな」
そう言って優しく何時もの様に微笑んで、眩い光の中へと消えてしまった彼。気が付けば、世界は何事も無かったかの様に平和に回っていた。彼が居ないまま、平然と。きっと彼は、白詛を寄生させられたばかりの過去の己を殺しに行ったのだろう。そうでもしなければ、あの地獄は再び江戸を覆い尽くしてしまうのだから。
坂田銀時という一人の人間の命を犠牲にしておきながら、平和なこの世界で生きていく事なんて己には出来るはずがない。それは、隣で涙を流している彼女にも言える事で。
(それなら、)
例え自分達が彼の記憶を失おうと。彼と共に居た時間、魂に刻まれた記憶までは消えはしない。だから……。
「一緒に、銀時様を取り戻しましょう」
じきに壊れてしまいそうな印象を与える緑の髪を揺らした女性が、儚い笑みを浮かべて自分達に手を伸ばした。
*
戦場を駆ける白に向かって木刀を突き出した彼に一瞬心臓が凍り付いたが、振り返った白が過去の彼では無かった事に安堵の溜め息を漏らした。
「良かった……間に合ったみたいだね」
「そうアルな」
ふう、と息を吐いて白を纏った長谷川と口論している銀色を見つめる。全てを時間泥棒であるたまから聞き、事情を理解している今となっては彼を一発ぶん殴ってやりたいという気持ちが湧き上がっているのだが。
「銀さんぶん殴るのは全部終わってからにしよっか、神楽ちゃん」
「そうアルね。とにかく今は魘魅を倒す方が先アル」
そう言葉を紡いだ彼女と顏を見合わせて笑い合った後、僕達は困惑した表情を見せる銀時の側へと足を進めて。
「銀さん、あんたは自分の命を賭して僕等に未来を繋いでくれた。だったら」
僕等は、その未来であんたを取り戻す。
そう言ってやれば、面白いくらいに銀時の目が見開かれた。
(嗚呼もう)
この馬鹿は何時になったら気付くんだ。心中で独り言ちて、腰の木刀に手を掛けて走り出す。目の前に迫り来る敵を薙ぎ払い、銀時の背中を追って足を動かした。
――知っている。あんたが僕達の為に独りでいる事を選んだ事を。知っている。あんたが五年間独りでずっと戦ってきた事を。知っている。あんたがずっと、独りは嫌だと心の底から叫んでいた事を。
――知っている。
(僕達が、あんたを諦められない大馬鹿者だって事を!)
真選組の手を借りて宙へと高く跳躍する。そのまま船上へと足を着き、行く手を阻む魘魅の部下を吹き飛ばす。
目の前には、笠を目深に被って身体中を梵字の様な模様が描かれた包帯で包み、黒いマントを着た男――魘魅。
(此奴か……!)
江戸の街を、お妙を、そして何より銀時を苦しめた元凶たる存在。ぎり、と歯を食い縛る。この男だけは、絶対に許さない。本当ならば今すぐにでも斬りかかりたいのだが、それは銀時が許さないだろう。その銀時は、腕や頬に白詛の宿主である証を浮かび上がらせながらも意地の悪い笑みを浮かべていて。
「御前の言う通りさ。此奴は俺の業だ」
魘魅に向かって言い放つ彼は、不敵な笑みを崩さない。己が背負うべき業ならば、何度だって己が背負ってやると。
(……ねェ銀さん)
あんたの業を、共に背負いたいと思うのは身勝手な想いだろうか。一度……否、二度あんたはその業に殺されているというのに、三度目までも独りで背負おうとしているなど、馬鹿のする事だろう。其処まで考えてはっとする。
(そういえば、銀さんは馬鹿だった)
額に手を当てて、はあ、と溜め息を吐けば少し離れた所で銀時の戦いを見守っていた神楽に如何したアルか、と問われ。
「銀さんは馬鹿だって思ってさ」
そう言葉を紡げば、彼女は其の青い目を僅かに見開いた後にすっと細めて。
「そんなの、周知の事実アル」
晴れやかな笑顔で言い、手にした番傘をぎゅっと握り締め、己も握る様にと促す。神楽の様子に銀時の方を見れば、成程自分達がとどめを刺せという事か。最後の最後に、ほんの僅かではあるが共に業を背負わせてくれた銀時の叫びを合図に地を力強く蹴り、魘魅に向かって番傘を突き刺した。
手応えは、あった。魘魅の片方だけ覗く瞳から禍々しい紅色が消えていく。
――終わった。
誰もがそう思った、直後。激しい風と轟音を生み出した其れが伸ばした包帯に自分達の身体が絡め取られ、其の中心へと引き摺られた。
「!」
息を呑み、銀色の名を叫ぶ。目の前の銀色は盛大に眉根を寄せて歯を食い縛り、焦った様子を見せていて。彼が木刀を強く握り、足を一歩踏み出して此方へ木刀を突き出す。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。土煙によって僅かに霞んだ視界に、銀時が二人映り込んだのだ。一人は良く知った木刀を握る彼。そして、その隣には。真剣を手にし、真白な戦装束に身を包んだ夜叉が、居た。
二人は目に強く鋭い光を宿し、口を開く。
「護れるものなら、まだあるさ」
銀時と白夜叉の声が重なり、魘魅をその刃で斬り裂いた。
*
地面に突き立てられた刃に、嗚呼彼は確かに此処に存在していたのだな、と思わせられる。ほんの一瞬だけ姿を見せた過去の銀時は、現在の彼と同じ光をその紅玉に宿していて。
(変わらないな、この人は)
神楽や定春と共に彼の腕に引き寄せられながら心中で笑みを浮かべる。どんなに世界が狂っていようが、この人は変わらず其処に在るのだと。
「俺達がもう一度、出会う為に」
お互いの顔を、よく覚えておけ。
穏やかな笑顔で言葉を紡いだ彼は、己のよく知っている坂田銀時であった。
消滅したはずの己の身体が、澄んだ水色の中をゆっくりと沈んでいく。どくりと心臓が脈を打ち、口からは水泡が吐き出されて上を目指して這い上がり。けれど、不思議と息苦しさは感じなかった。代わりに、灼熱が胸を支配していて。何かで突き刺された様なこの痛みは、きっと五年後の己が最後に感じた痛みなのだろう。そっと其処に触れて瞼を閉じる。
(頼まれた事、やってやったぜ。思わぬ邪魔が入ったけどな)
ふ、と口元を緩ませながら未来の己に話し掛ける。
(本当、とんでもねェ馬鹿ばっかだよ。俺の周りも、御前の周りも)
けれど、今回ばかりはその馬鹿共に諭されてしまった。もしかしたら、御前の心の底で燻っていた叫びを彼奴等は聞き取っていたのかもしれないな。御前の本当の望みは、俺に殺される事なんかじゃない。御前は唯――。
「嗚呼、そうだよ」
水の中で、未来の己の声だけが静かに響いた。
「俺は……怖かった。独りになるのが」
鼓膜を揺らした其の声は酷く震えていて。嗚呼情けないなと思う反面、五年も独りでいたのだから仕様が無いか、とも思う。護りたかった世界を自らの手で狂わせてしまい、身体の中に巣食う其れのせいで自分では死ぬ事を許されず。段々と己の自我が奪われていく恐怖を抱えて唯生きる、そんな五年。
(そりゃ、耐えられる訳ねェか)
あの馬鹿共が居る場所に全てを置いて出て行くのは、俺でも耐えられる気がしない。否、実際に全てを捨てた結果の俺が、彼なのだ。俺自身に殺される事だけを支えに戦った、五年後の俺。
ぷくりとまた一つ水泡が生まれて水面を目指して揺れていく。
「……なァ」
彼が小さく呟いた。
「何だ?」
「……ありがとうな、彼奴等護ってくれて」
そう言った未来の坂田銀時が、ふわりと微笑みを浮かべた気がした。
「……嗚呼。向こうで元気にやれよ」
坂田銀時。
俺も言葉を紡いで、静かに瞼を下ろして視界を遮断した。
「銀さん銀さん! 何やってるんですか! 今日仕事入ってるって言ったでしょ!」
万事屋に入ってくるなり思い切り叫んだ新八に、布団から飛び起きて急いで身支度をする。神楽も時計を見て完全に寝坊アル、と言いながら常に着ているチャイナ服を箪笥から引っ張り出していて。
彼女が完全に身支度が出来たのを見計らい、遅刻だと叫びながら万事屋を飛び出す。俺の後ろを新八と神楽が追い掛けて走り出した。
――相変わらず騒がしい奴等だな。
――ええ、そうですね。
どたどたと騒がしく仕事場へと急ぐ俺達の背中を、首や頬に梵字の様な模様が浮かんだ青年と色素の薄い長い髪をした青年二人が見送っていた事を、俺は知らない。