月の聲
ぴしゃり。澄んだ水音が夜空に響く。月明かりが差し込む深い森の中の開けた場所にある湖の真ん中で、月の光を一糸纏わぬ身体に浴びる真白な少年が居た。その濡れた銀色の髪は少し紅色が滲んではいるもののきらきらと輝いて、まるで空で存在を主張する其れのようで。上を向いてはいるが、其の目に世界を映さぬようにと閉じられた双眸、その左目から静かに伝い流れ落ちる雫が僅かに光る。ざあっと全てを天へと舞い上げるかのような風が吹き、其れに驚いた蛍達が一斉に飛び立つ。蛍が発する淡い光が銀色の少年の背後を掠めて彼をより儚く見せた。
「…………松陽、先生……」
小さく落とされた少年の呟きは、誰に聞かれるでもなく暗闇に溶けて消えた。
「銀時が帰って来てない、だと?」
拠点に帰って早々幼馴染みである黒髪で長髪の人物―桂にそう告げられ、眉根を寄せる。聞けば、撤退の狼煙が上がってからもう随分時間が経っているというのに帰って来る様子が全く無いのだそうだ。あの馬鹿、と舌打ち混じりに呟いて踵を返して歩き出す。おい高杉、と己を呼び止める桂の声には一切無視をして休ませていた馬に跨り、空を見上げる。爛々と存在を示している月に、何故だか酷く胸騒ぎがした。嗚呼、頼むから。
「間に合ってくれよ……!」
暗闇に真っ赤な目が鋭く光る。抜き身の刃を握る手は微かに震えていて、其の真白な肌には紅色の飛沫が飛んでいた。先程まで静かに涙を流していた銀色の少年は荒い息を繰り返しながら辺りを見回す。戦場とは掛け離れた綺麗で純粋だった此の場所が、己の手によって真っ赤に染まってしまった事に彼は唇を噛んだ。
「畜生……!」
赤い湖の真ん中で血を吐くかのように空中へと放り出された彼の声を、天に居座る月だけが聞いていた。
*/*/*
かさり。足元にある草が揺れる。疎らに赤が滲んでいる地面を一瞥し、あの目立つ銀色を探した。何時の間にか深い森に入ってしまっていた様で、眉間に皺を寄せる。帰り道は一応把握してはいるが、此れ以上進むと冗談抜きで帰れなくなるかもしれないと焦る心を弄ぶ。先程から探し人である銀色―銀時の名を何度も叫んでいるのだが、其れに答える声は聞こえず。段々と苛立ちと共に不安が募る。一瞬最悪な事を考えてしまい、そんな事がある訳がないと頭を振って前を見据えた時だった。微かな水音が聞こえ、一匹の蛍が此方に飛んできたのは。蛍は俺の目の前をゆっくり旋回したかと思うとまるで俺を誘導するかの様に来た道をゆっくりと戻って行く。
「……着いて来い、ってかァ?」
喉を鳴らして其の蛍に着いて行く。さて、凶と出るか吉と出るか。
*
「…………」
蛍に着いて開けた場所に出たはいいが、其処にある湖の真ん中で此方に背を向けて只々天を仰ぐ彼を見た瞬間言葉を失った。衣服を一切纏わぬその身体は所々赤い飛沫が散り、小さく、本当に小さく震えていて。馬鹿が、と小さく呟いて俺は服が濡れるのも気にせずに湖に足を沈めた。なるべくゆっくり、銀色を刺激してしまわないように彼に近付く。ぱしゃりと静かな空間に透き通った水の音だけが木霊して。尤もその水は紅色が滲んでしまっているのだが。漸く彼に触れられるまでの距離に辿り着き、彼に手を伸ばして後ろからそっと抱き締めた。そして、耳元で囁く。
「帰ろうぜ……銀時ィ」
俺の其の囁きに、銀色の彼―銀時はぴくりと反応して見せた。光の宿らぬ虚ろな瞳が俺を捉え、其処から透明な雫が一粒零れ落ちた。その涙に、銀時の身体をゆっくりと己の方に向けさせ、その微かに震える唇に己の其れを優しく重ねた。
「…………ッ、ん……」
角度を変えて接吻を繰り返しながら、銀時の喉元に手を掛ける。緩く首を絞める俺の手に彼は少し苦しげに眉根を寄せる。俺の後頭部を鷲掴んで呼吸の限界を知らせてきた銀時に唇を離してやれば、彼ははふはふと荒い息を吐いた。その隙に存在を主張し始めている彼自身に手を添えながら其の真白な喉元に噛み付く。
「あ……ッ!」
掠れた声を上げて背を仰け反らせる銀色は酷く扇情的で。ぐっと銀色の其れを手のひらに力を籠めながら撫でてやれば、彼は小さく声を上げて身体を大きく震わせる。そんな彼に俺は口角を上げると目を瞑って快楽に浸る銀時の耳朶を甘噛みし彼の耳元で銀時、と呟いた。閉じられた瞼から流れた生理的な涙を舌で掬ってそのまま瞼に口付ける。嗚呼、壊したい程に愛おしい。
*/*/*
「…………なあ、高杉……」
俺と会ってから行為が終わるまでまともに話さなかった銀時がここにきてようやく言葉を吐いた。湖から上がり、手拭いで銀時の身体を拭いて己の陣羽織を彼の肩に掛けてやりながら、何だ、と問い掛ける。
「俺は…………人間、だよな……?」
「!」
彼が口にした言葉に僅かに目を見開く。嗚呼、そうか。此奴はずっと――。
「手前は、俺達と同じだ」
俺の言葉に、銀時は俯けていた顔をそっと上げる。その紅色の瞳は不安げに揺れていて。思わず彼を思い切り抱き締めた。
「鬼だろうが、人間だろうが、手前は俺達と、俺と同じだ。だから……」
手前は手前のまま、生きてりゃ良い。そう言い聞かせるように呟いて、彼に触れるだけの接吻を与えた。
忘れる事の無い、俺達の根底に存在する吉田松陽が首だけになって俺達の下へと帰って来たのは、つい先日の事だった。