Aizen

空蝉

 ふいに目が覚めた。何時もならば聞こえてくる万事屋の子供達の声がしない。夏真っ只中だというのに蝉も鳴く事を放棄した様で、物言わぬ静寂だけが己の居る空間を支配していた。万事屋の客間の真ん中、ソファーで横になった体制のまま己は投げ出していた腕を動かし、そっと耳を塞いで目を閉じる。僅かに風が吹き、窓際に吊るしてある風鈴がちりん、と音を立てて。耳の奥で、拭い切れない過去が慟哭を上げた――。

 白い煙が空中にじわりと溶けて消えていく。辺りを漂う匂いは火を点けたばかりの線香から生み出されるもので。折っていた膝を伸ばして立ち上がり、盛り上がった地面に突き刺さる一振りの刃を視界に捉えて目を細めた。江戸の街が一望できる見晴らしの良い丘、其処に唯一存在する桜の樹の下に在る其れは、己が戦を抜ける時に一人で作り上げたもの。己の育ての親であり恩師であった吉田松陽と、攘夷戦争後期において伝説と謳われた白夜叉の墓だ。
(……また、この時期が来ちまったな)
 樹の幹に止まって鳴き声を上げる蜩(ひぐらし)に、ふと空を見上げてみる。天は鮮やかな橙色に焼かれ、もうすぐ太陽が沈んで夜が来る事を知らせていて。ゆっくりと瞼を下ろせば、何処か遠くで鳴いた烏の声が鼓膜に響く。
――嗚呼、帰らなければ。

 夏にしては肌に冷たく感じる風が辺りを駆け抜け、己の銀髪を揺らして姿を消した。

   *

「あ、」
 熱中症で倒れる人が続出するこの季節、万事屋よりかは遥かに涼しい志村家の縁側で胡坐を掻き、西瓜を齧っていた桃色の髪の少女が声を落とす。
「如何したの神楽ちゃん」
 団扇で自身に風を送りながら、黒髪の眼鏡を掛けた少年が畳に横たえていた身体を動かして彼女の方に視線を向ける。少年に神楽と呼ばれた少女は、其の空色の瞳にどんよりと灰色の雲に覆われつつある天を映してぽつりと呟いた。
「一雨来そうアル」


   */*/*


 此処は一体何処であろうか。己は確か墓参りを済ませ、今にも雨が降り出しそうな重い空を見て己の家へと帰る為に足早に帰路に着いたはず。なのに、それなのに何故己は今見知らぬ土地にいるのだろうか。
(…………否、)
 全く知らない、という訳ではない。何処か懐かしさを帯び、胸につきりと僅かに痛みが走る場所。膝下まで伸びた薄が風に踊り、夕暮れに抱き締められた金色の海に波が生まれる。其の光景に、嫌な予感が心をじわりと湿らせた。
 かさり、揺れた金色同士が触れ合って僅かな音を紡ぐ。それと同時にふいに背後に感じた気配。
「銀時」
 己を呼ぶ、声がした。穏やかで優しく、しかし力強い、全てを諭す様な声。
(嗚呼、)
 これだから――……。


   */*/*


 雨が降り出した。縁側から部屋の中へと移動し、足元で転がっている少年と同じ様に身体を畳の上へと投げ出した少女は、さあさあと耳に心地良い音を奏でる雨を眺めながら酢昆布を銜えて目を細める。
 昼を過ぎた頃に出掛けると言って家を出て行った銀色は、もうすぐ日が暮れて夜になってしまうというのに未だに帰って来ない。彼が行く場所など江戸の街では限られているが、万事屋を出る時の彼の表情は何処か愁いを帯びていて。銀時は隠したつもりなのだろうが、長い事共に暮らしていれば彼の僅かな変化でも気付く様になるというもの。
(きっと……)
 きっと、彼の大事な人の所へ行ったのだろう。今は丁度帰って来る季節である。銀時の大事な人が眠る場所など己も新八も知らぬから、彼を迎えに行こうにも場所が分からない。銀色が出掛ける時には雨など降っていなかったから、当然彼は傘を持っていない訳で。
(……銀ちゃん)
 心の中で小さく呟いて、神楽は酢昆布を咀嚼して猫の様に身体を丸めた。


   */*/*


 束の間の夢なのだろう。触れられた頬が酷く冷たい。死者であるから温もりなど持ち合わせていないのは当たり前の事。
「……銀時」
 それなのに、発せられる声はじわりと熱を孕んでいて。心にゆっくりと温かく浸透していく其れに、胸が言い様の無い痛みを訴えた。
「如何やら御前はもう……私が居なくても大丈夫みたいですね」
 己の頬を撫でる彼の言葉に、僅かに首を縦に振る。そうしなければ、きっと彼はこの先成仏出来なくなってしまう、そんな気がした。彼は己の行動を見て口元に母親が赤子を見守る時の様な微笑みを浮かべ、俺の頬からするりと手を外してそのまま己の銀髪を撫でた。
「銀時、何があっても……最後まで、生きて下さいね」
 約束……ですよ。

 気が付くと、彼の姿は消えていた。足元に薄などは存在せず、道端に咲く千日紅が全身に浴びたであろう雨の滴を地面へ落とそうと揺れているだけで。
「…………狡いよ、あんたは」
 夕焼けの暖かな光が消え去る刹那、己の頬を暖かい雫が一筋滑り落ちた。


 すっかり日が暮れて夜の闇が辺りを静かに包み込む。一歩、また一歩と万事屋への道を歩いて行く銀色の表情は、前髪に隠れて察する事が出来ない。けれど、彼が纏う雰囲気は何処か物悲しく。ふらふらと覚束無い足取りも相俟って、今にも消えてしまうのではないかと見る者を不安にさせた。そんな銀色に声を掛ける子供が二人。
「やっと見つけたネ、銀ちゃん!」
「銀さん、遅いですよ。全く、何処ほっつき歩いてたんですか」
 文句を言いながらも彼の手を取り、背中を押す子供達は笑顔を浮かべていて。
 今日は新八の家で皆で夕飯食べるアル、だとか夕飯は姉上じゃなくて僕が作るんで安心して下さい、だとか歩きながら言いたい放題言う二人は、志村家の玄関まで辿り着くと銀時の手を離して門を開け、銀色の方へと振り向いて声を揃えて言葉を紡いだ。
「お帰りなさい」
 其の言葉に、銀時は目を僅かに見開き、しかし次の瞬間には口元に笑みを浮かべて。そして、若干俯けていた顔をゆっくりと上げて口を開いた。
「嗚呼、ただいま」


ピクシブ内企画「映画公開エアアンソロ」様提出

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