夢路、惑ひて
足元に咲く彼岸花がしっとりと濡れて其の色を艶やかに見せている。地に落ちた紅色の番傘は本来の役目を忘れ、静かに其の身に天の涙を浴びていて。今にも肩からずり落ちそうな羽織りを赤く染まった手で押さえ、折れた刃を緩く掴んだまま、解けかけた包帯を直そうともせずに俺は唯赤い世界に佇んでいた。
*/*/*
彼の頃に必要な者は全てこの手で壊してきた。差し出される柔い手の平も、投げ掛けられる諭す様な声も、護る様に向けられる愁いの視線も、全て。己を構成する者は彼の頃ではなく吉田松陽唯一人なのだ。彼の頃に縋っているのではない、彼の人の背を今でも追い駆けているだけ。唯、それだけなのに。
「……赤ェ」
振り返れば敵と味方双方の屍が混ざり合って転がっている地獄が広がっていて、前を向けば其処には真っ赤な闇しかなく。俯けば血に濡れた手の平、天から降る滴さえも赤く色付いて見えて。頬を伝い流れる其れが雨なのか涙なのかはたまた血なのか、判断仕兼ねた俺は愚かなのだろうか。身体にじわじわと滲んでいく寒気と恐怖に僅かに眉根を寄せて空を仰ぐ。
雨は、未だ止む気配を見せない。
*
夢を見る。彼の人が夕陽に包まれながら此方を振り返って手を伸ばしてくれる夢を。けれど、それはほんの一瞬で砕けて雨に溶けて消えていくのだ。ゆるゆると確実に広がっていく、記憶の崩壊。
前髪を乱暴に握って瞼を閉じる。暗闇の中に映るのは、見たいけれど見たくない彼の人の慈愛に満ちた微笑み。嗚呼、何て――。
*/*/*
ふっと目が覚めた。詰めていた息をゆっくり吐き出して木目の天井をぼうと見つめる。
「――……」
夢、にしては現実味がありすぎた。己の身体を腹まで覆う乱れた掛布団を直そうという気も生まれず、横に放り出された腕に視線を向ける。力無く広げられた手の平の、其の肌色に紅色がべっとりとこびり付いている様に見えてきつく瞼を閉じて大きく息を吸い、恐る恐る目を開けて。再度視界に映り込んだ己の手の平の中に、過去は渦巻いていなかった。
ふう、と息を吐いてゆっくりと上半身を起こす。枕元に置かれた盆の上に薬と湯飲み、そして水差しが静かに佇んでいるが、それらには一切目もくれずに布団から這い出て縁側へと向かった
天から落ちる雫が庭をしとどに濡らしている。傘も差さずに庭に裸足で降り立ち、足が汚れるのも気にせずに歩いた。ふと視界に入った三輪の彼岸花。隅の方でひっそりと咲く赤い花はまるで親を見失った子供の様で。その中の一輪だけ真っ白な其れを手折って僅かに口角を上げる。
(……銀時みてェだな)
くるくると回して遊びながら、純白の異質な其れに口付けて。嗚呼、楽しい。此の白を赤く染め上げてしまいたい衝動に駆られたが勿体無いからと己に言い聞かせ、そっと懐に仕舞い込む。そういえば銀時自身は如何したのだったかと頭の中に疑問が生まれた。
彼奴と最後に会ったのが確か一週間程前で、其の時は互いに刃を向けていて……。
(嗚呼、そうか)
案外簡単に出てきた答えに喉を鳴らした。
「俺ァあの時銀時を、」
――殺してしまったんだ。
*
正確に言えば命を奪ったのではなかった。俺が殺したのは銀時であって銀時でないもの。銀時の中に眠る彼の人が欲しくて欲しくて堪らなくて、俺は銀時の精神を殺した。そうすればきっと彼の人が戻って来てくれる、銀時の身体を通して彼の人が俺を見つけてくれる、そう思ったのだ。
結果、如何なったのか。俺にはまだ把握出来ていない。あと少しという所で邪魔が入ったから。
其処まで思い出して小さく舌打ちを零す。
「如何して、」
小さく落とした声は雨に浚われて地へと吸い込まれた。
銀時に会いたい。彼に会えば、瞼の裏を一瞬だけ染めて消えていく色褪せた過去を鮮明なものに出来る。一瞬だけではなく、もっと長い時間過去に逝ける。ほんの少しではあるが桂にも先生の面影を感じる時があるが、あれでは駄目なのだ。銀時でないと、はっきりと先生の姿を見る事が出来ない。
「早く会いてェなァ……銀時ィ」
まるで悪戯を思い付いた子供の様に口角を上げ、赤い彼岸花を一本手折って懐に放り込む。
白い花に赤がどろりと溶け出して慟哭を上げた。
何時の間にか雨は上がっていて、残された一輪の赤い花が此方を恨めしそうに見上げている。其れを踏み潰して空を一瞥。橙色に焼かれる天が、まるで己が背負う赤い闇の様。嗚呼、もうすぐ彼の魂も同じ様に俺が焼くのだろう。
「終わりを始めようじゃねェか……なァ?」
銀時ィ。
俺の小さな笑い声は、誰の耳に届くでもなく霧散した。